「ボケ」と「ツッコミ」でなぜ笑いになるのか考える
こんにちは、お笑い大好き鈴木くんです。
特に漫才が好きです。
〇ーチューブで四六時中漫才の動画を見てたり、大阪に住んでるのでNGK(なんばグランド花月)で見ることもあります。
そんな感じ色んな人の色んな漫才を見てるうちに、気になったことがあります。
なぜ「ボケ」と「ツッコミ」で笑えるのか
どうしてボケとツッコミでお笑いになるんでしょうか?
正直生産性のない話ですが、個人的にはかなり疑問です。
ちなみにボケとツッコミについて、Wikipedia先生は
ボケ=「話題の中で面白い事を言うことが期待される役割」
ツッコミ=「ボケ役の間違いを素早く指摘し、笑いどころを観客に提示する役割」
と教えてくれています。
(こんなことまで書いてくれる人がいるんですね)
あんまりボケとツッコミの役割を考えることもないですが、こうして見ると「確かにそうだ」という気になります。
ボケだけで笑いは成立するのか
漫才の起点になるのはボケです。
ボケは「面白いことを言う」役割を持っているわけで、ボケなくしてツッコミのしようがないですから、漫才はボケありきとも言えます。
余談ですが、Wikipedia先生によると漫才師には、
- ボケが話を進めるタイプ
- ツッコミが話を進めるタイプ
とあるようで、ボケが話の進行役になるようであればなおさらボケが観客や視聴者を引き付ける要素を持っています。
「ボケが花形」なんて話も聞いたことがありますが、ボケのほうが主役になりやすい模様。
じゃあボケだけで全てが決まるかっていうと、そんなことはありません。
「笑いどころを観客に提示する役割」が漫才のキモ
個人的な考えですが、漫才に必要なのは内容云々よりも、
- はっきりとボケること
- そこが笑いどころだと見てる人に教えてあげること
だと思ってます。
ボケは、それがちゃんとボケだと観客に認識してもらって初めて笑いになります。
もし、ボケに対してツッコミがなかったら、
「変なこと言ってたけど今の笑っていいところ?」
ってなると思うんです。
そこをちゃんと「今のとこ笑ってくださいねー」って暗に伝える役割があってこそ、ボケが活きてきます。
ツッコミがあることで、「おふざけ」が「ボケ」になるんじゃないでしょうか。
「笑っていいかを確かめる」ってとても日本人的だと思う
ツッコミは、ボケを「笑いどころ」と皆に認識させてくれる作業です。
それが必要ということは、「皆で正しいところで正しく笑おう」ってことを示している気もするんです。
これって、日本人特有の「皆同じであるべき」みたいな気質にリンクしているんじゃないでしょうか。
「ここで皆で笑ってね」というポイントが必要になる漫才という文化は、とても日本人チックだなって話でした。
まあ面白ければそれでいいんですけどね。